『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
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[link:1275] 2012年09月08日(土) 15:37
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天才、という言葉をむやみに使うものではない、ということはよーくわかっているけれども、
やはりこの人には使わずにはいられません。
中尾勘二さんという人は、一見寡黙で、なんとなくちょっとこわいひとなのかな、という気持ちが一番初めはありました。
でもそういう気持ちをはねのけてでも、ぜひとも一緒に演奏してもらいたいと思ってしまうほど、中尾さんのトロンボーンと、そしてちょっとやそっとじゃ制御できないエンジンのついたようなドラムは魅力的で、最初に演奏を目撃した時から惹き付けられてやみませんした。
そして、一緒に演奏してもらえる機会が増すごとに、中尾さんという人のズバ抜けたセンスとお茶目さと、こどものような柔らかくて色とりどりの心の様子?が次々と姿を表し、やっぱりこの人は天才…と思わずにはいられないのです。
ご本人は何か特別なことをやってやろう、という感じではきっとまったくなく、「オレにしかできない演奏を」とか思っているようにも、目立とう、としているようにもまったく見えないのに、そのプレイはなにか常に光を放っているのです。
その演奏を、受け取るこちら側は、どういうふうに見て聴いているかというと、たとえば自分が鬼になって「だるまさんがころんだ」をしたら、次に振り返った時にどんな姿でそこにいるのかが一番楽しみな人、というような感じでしょうか。
「だるまさんがころんだ」で振り返るのが楽しみ、と思えるような人はそうそういるものではないのです。
振り返ると、なぜか必ず「おわ!」と目にとまってしまう。
そしてなんだかやっぱりおもしろくてちょっと笑っちゃう感じがする。
どんな時でも、この、「笑える」ってのはホンットーウに重要で、人生、泣きながらでも、怒りながらでもやっぱり笑っていたいものなのです。
(もちろんなんでもいいから「笑えればいい」っていうことではないのです。ましてや、テンターテインメントとしての笑いは別として、「おもしろいだろ?」という激しい意図でガンガン来られても困ります...)
そういうなんだかわからないけどちょっと笑ってしまうような突き抜けたナニカこそが、とてもかっこいいし魅力的。
魅力あふれるガッタントンリズムの人々の中にあっても、そして、仮にまわりに誰ひとりいなくても、常に変わらない光を放つ、それが中尾さん。
スゴイ人だと思います。