『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:1272] 2012年03月24日(土) 02:26
[link:1271] 2012年03月11日(日) 17:32
[link:1270] 2012年01月08日(日) 15:35
[link:1269] 2012年02月01日(水) 23:10
[link:1268] 2012年01月01日(日) 01:45
k-diary script by Office K.
※このページの更新情報はlastmod.txtより取得できます。
あの大きな災害が起きた直後、「この先、わたしたちはどうなってしまうのだろう」と思った時からがむしゃらに時は過ぎ、気がついたら1年が経っていました。
1年経ったからといて、時に区切りがあるわけでないのと同じように、何か区切りがつくわけでもないし、とにかく、暮らしている場所やそれぞれ置かれている状況が100人いれば100通りあるのだから、復興が進んだこともあれば、もどかしく進まぬことや、状況が悪くなっていることもあると思う。
東京にいて一連の混乱は経験したけれど、幸いにもたいしたことはなく、被災地で身近な人が亡くなったりしていない私は、報道やテレビで大切な人や暮らしを失った人たちの悲しみや辛さを見るにつけ、胸がはりさけそうになるのだけれど、実際にそれをどういう形で応援する気持ちに変えたらよいのか、ということについては、いまもわからないままです。
職を失った人に働いてもらえるようにできるような会社の社長でもないし、チャリティーライヴでたくさんのお金を集められるような立場でもないし、できることといえば僅かばかりの寄付であるとか、復興した東北へ旅行へ行くとか、微力なお手伝いとか、自分がそうだと思うことに協力する、とか、そんなことぐらい。
で結局、自分には、与えられた場所を大事にして、いつも通りにすべきことをするしかないんだなあ、ということに行き着く、という繰り返しでここまで来ています。
でもそれとは反対に、「すべきことをするしかないんだけど、できることなんかないんじゃないか?」という気持ちも同時にあります。
食べるものを作る人は今日食べるものを作ることができるし、お風呂屋さんは今日もお風呂を沸かして疲れをとることができるけれど、私の場合、音楽を作って暮らしを立てているから、「自分のすべきこと」=「ひとつひとつ大事に音楽を作る」で、それはやけに抽象的で、いつも「それって独りよがりの自己満足なんではないか?」という思いがよぎります。
特にそんな中で、7年ぶりの自分のアルバム作りを進めていて、この作業が「自分と向き合う」という点で、これまでで一番気持ち的に(簡単な言葉でさらっと言うと)「大変」であります。
もともと、自分の歌に対して「こんなことを今更歌ってどうする?」という思いが常にあるのですが、その思いがさらに強くなり、「いやー、自分にはもうできることはないんじゃないか?」という気持ちになる。
自分を無力だ、とは思わないけど、限りなく無力に近い微力だなーと思います。
でもそこに飲み込まれちゃうのはもっと無力になるので、この相反する両方の気持ちを抱えながら、それでもやっぱり、自分の作る音楽に責任をもって作っていくんだな、というところにまた辿りつく。
まるで堂々巡りのようだけれど、いまのところ、これが私の在り方なんだろうと思います。
でもひょっとして、これって世の大半の人がそうなのかもしれません。
実際声をあげれば事態は動く、たくさんの人が救われる、という立場の人や、それに値する信念と確信があってそれを貫ける人はすばらしく、どんどんやってほしいけれど、そんなことができる人はそんなにたくさんはいない。
みんな相反する気持ちを両方抱えているし、だから世界もそうなって、世の中ってごちゃごちゃしてるんでしょう。
そのごちゃごちゃの中で「それでも」と思って毎日お湯を沸かし、歩き、シャッターを開け、傘をさし、洗濯物を干し、時には花を飾り、歌をうたい、酔っぱらい、ケンカをし、毒を吐き、後悔し、泣いたり笑ったりするんでしょう。
ちっぽけである。
何の役にも立たないにちがいない。
ひょっとして、どこかで誰かの耳や「誰でもないドコカのナニカ」に届くかもしれないし、なににも届かないかもしれない。
らくがきのようなもの。
でも届いたらうれしい。
なにかをしながら、一瞬でもフンフンフフンなんて鼻歌してくれたらなおうれしい。
暮らしの中に聴こえる音楽を作るってことって、ただ、そういうことなんだな、と思っています。
だから、私が自分のすべきことをすることで、悲しい思いをしている人の気持ちが和らいだり何かの救いになったり役に立ったりするとは到底思いませんが、それでもこういう気持ちで作っています。
今年、デビューアルバムのドロップ横丁が出てからちょうど15周年。
そんなことはあんまり関係ないけど、久しぶりのアルバムがこっそり出来上がる予定です。
こっそり出来上がると思いますが、出来上がったら大きな声で「出来ましたよーーーー!」と叫ぶつもりです。
いつかどこかで聴いてもらえたらうれしいです。
うん、がんばるぞ。