『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
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[link:1264] 2011年10月14日(金) 22:16
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してみたくなった、というか、前々からやってみたいと思っていて、家人の居ぬ間にこっそり練習したこともあるが、まったくダメなのだ。
シャウトといえば真っ先に思い浮かぶJBことJames Brownや、このScreamin' Jay Hawkins、キヨシローもしかり、いわゆるシャウトというのとはちょっと違うけれど、身近なところでは、ブラウンノーズの二人もかっこいいシャウトができる人々だ。
ゴスペルで歌が叫びになっていくのも、とにかく、みなその叫びは寸分のブレがない。
感情がたかぶってやたらめったらに叫んでいるように見えて、実は当然のことながら、叫び手は絶妙なチューニングのトーンへ、しかるべきボリュームと太さを備えた叫び声をどひゃーっと持っていっているのだ。
特にアレサなどを聴くと、「叫び」は完全に歌の延長ってことが大変よくわかるから、件のScreamin' Jay Hawkinsだって、唐突に狂ったように叫んでいるのも、「ちゃんと叫んで」いるのだろう。
それが天才的に無意識でできてしまっているのか、ものすごい緻密な計算に基づいた「歌」としてのトーンを出しているのかは人それぞれでどっちの場合もあると思うけど、「ゔぁーっぅ」なり「ぎゃー」なり、のソレは音のはずし具合、声の太さ、量、そこまでもっていく時間とスライドの加減は、すべてが絶妙でバッチリはまっている。
シャウトでなくて普通の声で「はずす」時だって、そのキーとバッキングに合ったところへはずさないと、なんかどうもお尻の座らない変テコな感じになってしまうから、それをシャウトでやるのはなおさら難しい。
などと、考えてみると、考えるほどかえって歌えなくなってしまうようなすごい技なのだ。
ブラウンノーズは私の「迷子のステップ」という曲でも、ごきげんに叫んで?くれている。
で、私もやってみた。
具体的には、「ワン・トゥ・スリ・フォ・ワン・トゥ・スリィィィィィィィッヤッ」!
.........。
なんだか幼児が癇癪を起こしているようだ。
ではJB風はどうか。
「ワン・トゥ・スリ・フォ・ワン・トゥ・ヒャ〜〜〜〜〜〜ウゥ」!
.........。
だめだ。
まず声がとてつもなく頼りない。
JB風どころか、百歩譲ってただの「悲鳴」として考えても不足である。
小さな声で、こういうイメージ、という感じで出すことはできる。そして、トーンというかこのぐらいにはずした音、というのはかろうじて出すことができる。
しかし、ねらったトーンは出せたとしても、圧倒的に声のボリュームと太さがまったくない。
シャウトをするには、その前にまず立派な悲鳴をあげられないことにはダメなのか?
いやしかし、悲鳴悲鳴と簡単に言うが、そもそも、悲鳴というものすら、日常ではそんなにあげるものでもない。
日常の中で、不意に本気でびっくりすると「うぐっ!」とか「ひゃっ!」とか、かなりお尻の切れたような感じになってしまいがちだ。
よくドラマとかで見る「キャーー!」という立派な悲鳴は、「これから驚くぞ」と頭の中で準備された悲鳴だと思う。
となると、悲鳴の練習からしなければならないが、なにしろこの練習は家ではしにくい。
鳥の首をしめたようなほっそい声を日常的に上げるのも、逆に、立派な悲鳴があげられるようになったとしても、大変近所迷惑だ。
スタジオに一人で入ってもカラオケボックスに一人で入っても、ちょっとは外に声がもれるかもしれないので、延々と一人でシャウトの(または悲鳴の)練習をするには少し勇気が必要だ。
近所におばけ屋敷なんかがあると意外と練習場所に便利かもしれない。
「これから怖いはず」とわかっていながら適度にほんとにびっくりするから、こちらには「悲鳴を上げる準備がある」し、なにより、心置きなく悲鳴をあげられる、という安心感がある。
悲鳴をあげまくっていても、誰からも変だと思われないので、立派な悲鳴があげられるようになったらシャウトの練習に移行すればよい。
行きたい。おばけ屋敷に。
そして、いつか自在にシャウトができるようになってみたいものだ。
今のところ自分の音楽性にはまったく生かされないような気もするが。