『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
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この日は台風!足元激悪!みなさんびしょ濡れになられたでしょう。ごめんなさい。
遠くや近くから、いつも来てくださる方、何十年もの時間を経て来てくださった方が駆けつけてくださってほんとうにうれしかった。
あちこちでそれぞれに時間も場所もまったくちがった形で出会った方々と、ひろーーーい宇宙の中のこの星の、この東京の、ある街のちいさな場所で時間を一緒に過ごせる、というのは、考えれば考えるほど不思議で面白くて、涙が出るほど愛おしくうれしいことであるなー、と思います。
人というのは生まれて死ぬ、というまったく止まらない生き物だから、そのまったく止まらない生き物が何十億といて、それらがそれぞれまったくちがう時を流動しながら過ごしているのだから、その無常である様は、なんと確信がなくて、なんと所在なく、なんと実体がなく、あてにもならないことか、と思うけれど、それなのに、そういうものものが、ある時ある場所で同じ瞬間を見たり聴いたり笑ったり感じたりっできるってことが、もうそれ自体奇跡なわけで、すれ違い、行き交い、違う断面で動いているすべてのものの中で、その欠片同士が、「またここで会いましょう」なんていって、また本当にここで会えるなんて、ほんとにすごいことだと思うのです。
そう思えばこそ、人は、「約束」なんていうもっとも頼りない合図も、「まだまだ捨てたもんじゃないぞ」と思っては、何度もするんだろうし、それこそが、この世を歩く醍醐味だと思うのです。
と、ああ、つい話が広がってしまいましたが、そういう愛おしい瞬間を一緒に過ごしてくださる人々と場所があって、私はとてもしあわせです。
それと同時に、その人や人や人や人がそれぞれのちがった場所と時にいても、その人々それぞれの時間の中や暮らしの中で、道を歩いていても、電車に乗っていても、お洗濯を干していても、窓にほおづえをついていても、勉強をしていても、手紙を書いていても、いつかどこかで会った人や顔や歌や声や話や溜息を、ふと浮かべて、気持ちがぎゅっとなったりふっくらしたりしていたらいいなあと思います。
そして私も私の出会っているたくさんの大事な人やモノや景色を浮かべては、私の歌や音楽もそういう人やモノや景色の雑念の一つになっていたいなあ、といつも思っています。
みなさん、本当にどうもありがとう。
心からありがとうございます。