『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:1255] 2011年05月31日(火) 02:24
厳密には、アップしようかどうしようか迷ったままアップしなかった日記がいくつか。
でもそれももう迷った時点で、やっぱり公表はやめることにしようと思ってそのまま。
まだいろいろ大変だけど、東京の日常は少し落ち着いてきました。
震災以降、自分で歌うのに作るのでもお引き受けして作るのでも、とにかく自分が作る音楽に関して、ほんとに色々考えたしいろんなことを思った。
こういうのっていいんだろうか?とか、こんなこと私が歌ったところで何になるんだろう?とか、そもそも、「もうどんなに表そうとしても表し尽くせない何か」みたいなものが広がっていて、やってもやっても、もう何かを言ったり伝えたり表現したりできないんじゃないか、と思って、一時は気持ちが呆然となったりもした。
誤解を恐れずにいえば、そもそも音楽なんて無駄なものだものなあ、ってのをグリグリ思い知ったし(だからこそ必要なものだ、ってのもわかってはいるんだけど、この場合人の生死に直接かかわることじゃないし、って意味ですよ)。
で、今。
何かが劇的に前進したりしたわけではないし、むしろ、厳しい現実を受け止めはじめた今、その、「やってもやっても表し尽くせない何か」がある気持ちは変わらないのだけど、そもそも「音楽」っていう、「命にはかかわらない、言ってみれば無駄なもの」を作っている以上は、「無駄である甲斐」がなきゃな、って思うようになった。
自分のことをイメージしてみると、例えば私を作っている100%のうちの50%ぐらいが実際に生死にかかわることだったり仕事だったりするとしたら、残りの50%ぐらいは、無数の無駄な、でも私にとってはとても大事な無駄なものでできてるような気がするから。いや、私の場合はもっとかもしれないな。
ほぼ、無駄なものでできている、と言っても過言ではない気がする。
人によって、その割合は違うでしょうけど、無駄が1%もない、という人なんかいないでしょう。
一瞬笑ったけど、忘れちゃったら忘れちゃったで、それはそれでいいや、ってぐらいのもの。いつか思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれないぐらいのもの。意識の外の、脳の外側ぐらいに知らないうちにハサハサと積もっていく埃のようなもの。
無駄なことは無駄であってこそナンボのものなんだから、全力で無駄であるべきでしょう。
いや、別にそんな大げさなことじゃなくて、私が音楽を作り演奏し歌ったところで何も変わらないと思うし、(まして誰かを癒すとか気持ちを楽にできるとか元気をどうのこうの、とはまったく思わないし、)たぶん自分で、自分が音楽を作らずにはいられない理由が、後付けでもいいからほしいだけだと思うけど、ただ、その無駄のひとつであるしかない以上、相当無駄なほうがいい。
無駄は無駄の役割をまっとうしたいものだ、と思うのです。
ゲラゲラ笑った後に、なんであんなにおかしかったんだろ?って思ったり、あんなに怒ったのにどうしても思い出せなかったりするケンカなんかとおんなじように、どんどん忘れていってもらって構わない。
でも作ります。
この世に積もった塵のひとつです。