忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2011年03月24日(木)

24日は誕生日でした。
おめでとうメッセージをくださった方々、どうもありがとう!

これまで、こっそり両親や家族にありがとう、と思ったりぐらいはしていましたが、誕生日だからと言って特に何かを記したり、ライヴをしたりというようなことはしないでいました。
今年もそういうようなものだ、と思っていましたが、今日はやっぱりこれを記さずに通り過ぎることができません。
今年はこれまで体験したことのない災害やそれに伴ういろいろなことを経験中で、今日ほど「数十年前のあの日、自分が偶然この世界に誕生させてもらって、これまでやって来られて、そして今こうしてここにいる、ということがほんとうに、あまりにも不思議ですごいことなんだ」と思ったことはなかったからです。

両親にこの世界に誕生させてもらったこと、大事な家族、大事な友達、大事なまわりの人たちに出会ったこと、それから偶然のように出会ってきたたくさんの数えきれないモノゴトは、すべて、今、ここにつながり、今、ここに「ワタシ」が在るための必然の偶然だったんだ、と思うと、本当にまわりのヒトたち、モノたち全部が愛おしく、全部をだきしめたくなってしまいます。
それと同時に、この世のあらゆる人たちみんなもそれぞれがそうなのだ、と思うと、もうやるせないやらせつないやらで、どうしていいかわからなくなります。
とにかく、できる限り大事にしたい、と思います。
自分やヒトやモノやコトのひとつひとつが、ちゃんとそのそれぞれのひとつひとつであることができるように。

そういうことを思うことができてよかった、と思える誕生日でした。
みなさんどうもありがとう。

で、急に話はユラユラと道を外れるのですが、毎日テレビで、ネットで流れる情報を見聞きしていると、どれもヒトという完璧でないせつないイキモノがやったり話したり思ったりすることなんで、当然とっても内容に差があり、それを受け取る人もまたヒトなのでそこからまたネズミ講式に微差が生じて、もう結局は自分が正しいと思うことを正しいと思うしかシカタガナイ、という状態。
まあ化学式でパキーンと判明することは信用してもいいんじゃないか?とも思うけど、反面、その難しい計測は自分でやったわけじゃないし、もし誰かが嘘ついてたら?とか思い出すと、もうなにがなんだかわかりません。

なんだけど、ナニガナンダカワカンナイだけではヒトとしてサミシイ。
赤ちゃんはしかたがないけど、せっかくそれなりに年齢を経て、自分の頭があるんだから、自分で何かを信じて何かを考えて何かを決めよじゃないか、と思うのです。
誰か、偉い先生が『大きくは方向性は「楽観視方向」と「悲観視方向」があって、そのどっちにもいいとことよくないとこがある』というようなことをブログでおっしゃってるのを読んで、なるほどなあ!ととても納得したわけです。
それをわかっているのといないのとでは、気持ちの保ち方がずいぶん違うぞ、と。

で、私、浅はかに考えました。
"気持ち"もそれとおんなじで、楽天的に寄るんでも悲観的に寄るんでもなくて「常に最悪の状態の心構えを持ちながら、楽天的に気持ちを持っていけるようにコントロール」すればいんじゃない?と。
偉い先生のお話の「楽観視、悲観視」は、現実のこの状況をどうみるか、というものだったと思いますが、私のは、単に気持ちの持って行きようのこと。
この状況について具体的に楽観視する、しない、ということではありません。
プラス思考、マイナス思考、というようなアレだと思いますが、この、「常に最悪のことを考えつつも、気持ちは楽天的に」というのは、一体マイナス、プラス、どっち思考なんでしょうか。
まあそれはさておき、そうやって浅はかに思ったけれども、いざそういうふうに気持ちを持って行こうとすると、これがシロウトにはなかなか難しい。
最悪のことを考えれば考えるほど、気持ちを明るく前向きに安定させるのは難しいし、楽天的に、というと思考がそこで止まる。
でも、なんとか気持ちを鍛えて、それ、できるようにならないかな、と思って、訓練しています。

最悪のことを想定する、次はどうするか想像する、そしたらどうなるか、次は、そしたら、次、次。
といっても、自分は最終的にはどうなりたいか、というところまでは考えるのが怖いのでそうそう行き着けないけど、でも、そこまで考えると、意外とそのどこかの段階でなんとかなってる図も想像できてくるような気がするのです(ヒトってつくづく勝手ですね)。
考えが、『最後にもし何かを食べられるチャンスがあるならお寿司がいいか、やっぱり白米か、エビ天か、もしくはものすごくせっぱつまっているかもしれないから、もっと食べやすいものがいいかも』というような、ある種アホな方向へ進みかけるとか、あるいは、例えばもうどうにもどうやっても無理!な状況になったとして、で、そこでどうせ死ぬのなら、せめて隣の誰かを助けてから......とかなどと思いはじめると、そのあたりで、「よし、それが考えられる間はがんばろう」と思えてきたりしないかしら(あくまでまだ想像だけど)。
でも、やっぱりこわいから、どこかで無意識に本当に最悪の事態を想像できなくて、結局これって一種の「逃げ」でしかないのかな、と思わなくもないのですが、ヒトってこれまた本能的に自分を擁護するようにもできているイキモノだからシカタガナイし、まあとにかくそこまで考えられるようになるまでには、すごい想像力が発生してるってことで、つまり、まだがんばれるってことだとも思うのです。

そう、想像力なのです。
ヒトをここまで動かしてきた大きな大きなものすごいパワーを持つ力は想像力以外の何者でもないと思う。
だから、想像力を鍛えて、常に最悪のことに対する心構えを持ちながら、でも楽に前を向いていられる心を訓練したいのです。
なんだか、滅法イイカゲンで無理矢理な考えかもしれませんが、とりあえず気持ちを鍛える訓練、しよう思います。


[link:1250] 2011年03月25日(金) 23:07


2011年03月21日(月)

leteにおいでくださいました皆様、本当にありがとうございました。
こういう状況下だし、お客さんは少しかな、と思っていましたが、キャンセルもなく、当日立ち寄ってくださる方もいて、たくさんの方に来ていただきました。
マイクを使わず、トバオさんもアコギ&エレキwith秘密道具でしたが、leteマジックのおかげで、なんとかみなさんにお聴きいただくことができ、よかったです。
今、みなさんそれぞれの場所でそれぞれ自分のすべきことを日々やって暮らしていますが、実際に被災していなくても毎日のように停電がある人も、ガソリンや食料が買えない人も、一人暮らしでなんとなく不安だったり急にこわくなったりする人もいて、私も含めてそれぞれなんとなく気持ちが曇るところがあって、それでもなんとか微々たる協力でも、我慢でも、するよ、という気持ちがある。
そういうそれぞれのいろんな思いを持ちながらも、いかに笑えるか、くだらないことで気がまぎれるか、というのもすごく大事だな、と思いました。
そして誰かと会ったりどうでもいいことをおしゃべりしたりすることで、きゅうぅぅっとなっていた心のどこかが「あ、ちょっと大丈夫になった」というのがいかに大事か。
なんだか、家の庭で、小さなキャンプファイヤでもしているような、そんな気持ちでした。
ほんとに、あの場を一緒に過ごしてくださったみなさま、ありがとうございました。
心からお礼申し上げます。
そして、今、苦しんでいる多くの方々にここに集まった私たちの気持ちが届きますように。

昨日私にいただいたチャージバックは全額義援金として寄付をさせていただきます。
最初に募金を告知して、少しでもたくさんのお金を集められる力のある人はどんどんそうすべきだと思いますが、私は特に告知はせず、普通の状態で普通にライヴチャージをいただき、自分にいただいた分を全額寄付にまわす、というやり方が自分にはあっていると思い、そうしました。
日本赤十字にするか、具体的に現地で今、尽力している実績のある NPO/NGOにきちんとお金を配分してくれる「Think the Earth」基金にするかを検討しています。

ほとんどは自分の勝手で、「やっぱりいつも通りやろう」と思ってやったライヴなので、これもやっぱり自分勝手な感想ですが、そこに来て下さったみなさんと会えて、話しができてうれしかった。
そしてお客さん同士が元気に会えてよかったね〜と話し合う後ろで、ちっぽけながらも、音楽を演奏していられてうれしかったです。
けっちゃんも同じ下北の別の場所でライヴがあり、440とleteを行ったり来たりしながら、タンバリンひとつとブラシですばらしい演奏をしてくれました。
まさに職人の技、を見た思いです。
トバオさんも「これが最初で最後」と言いながらもアコギに持ち替えてくれたりして、普段とはぜんぜん違う別の良さと味わいがあったし、電池で使えるちっちゃなちっちゃなアンプを通しての、ちょっとひっしゃげたようなエレキの音はあれはあれで他ではちょっと聴けないような独特な面白さがあって、私としては、こういう編成もたまにはいいなあ、またやりたいなあ、と思うのです。


さて、話は変わりますが、昨日帰る途中で、ウチにわりあい近い某コンビニ「ヘブン(ウチでの呼び名)」に寄りましたら、スーパーにはこの数日影も形もなかった卵もカップ麺も潤沢にあり、大盛りヤキソバなんか箱で山積み。
さすがヘブン。
ヘブンは某大手コンビニエンスストアですが、お店独自の仕入れルートがあるらしく、成城石井で売っているのと同じ品物(高額!)が普通に置いてあったり、輸入品や、お取り寄せでしか買えないような各地の珍しいお店の品物が入っていたりする、不思議なお店なのです。
で、話は戻りますが、その大量に箱積みされた大盛りやきそばも、卵も、その場にいたお客さん誰も買ってない。
私は卵がちょうどなかったので1パック買いましたが、いつものように、10個入りじゃなくて6個入りがあったら充分なのに、というような気持ちになり、大盛りやきそばに至っては「箱買いできます!」の手描きの貼り紙がわりと淋しい感じにすら見え、ひょっとして売れ残っちゃうんじゃ?と一瞬、お店の人が「失敗した、仕入れ過ぎだよ〜」などと話し合っている図を想像してしまったほどです。
ちょうど、音楽における「視覚」の話で、人は「演奏している映像を見ながら聴く」のと「音だけを聴く」のとでは聴こえ方が違い、実際に演奏しているものを目で見ながら聴くほうが「大きく聴こえる」ということを聴き、改めて「視覚」って心理とか「そういう気持ちにさせる」働きが大きいんだなーと思ってた矢先だったのですが、やっぱりどうもヒトって、視覚的に「無い!足りない!」と余計に「買わなきゃ!」と思うけど、「うわあいっぱい余ってる......」とかだと「ま、いいか(「大盛りだし....」などと急に現実的な嗜好に合うか合わないかの考えに切り替わったりしちゃうのもヒトのおかしいところ)」となりがち。
まさに視覚が心理に働くマジックじゃないかと思いました。
もしあの山積みされた大盛りやきそばの箱が全部空箱で、実際には大量の中身が被災地にちゃんと届けられていたとしたら、ヘブンの人は相当に天才です。
ほんとにそうだったらいいのにな、と思いました。
だから、アホらしいかもしれないけど、品薄のスーパーでも、もうすっからかんで現品が並ばないものはしかたがないけど、これからのモノについては、「アレもない!コレもない!」って気分にならないように、空箱でもなんでも、そうできるものはぴっちり封をしてさりげなくいっぱい積んでおいたらどうだろう?
「あら、なんかやたらあるのかしら.....?」的な気持ちの余裕が生まれれば、「ない!ない!」という無意識に焦ってしまう心理に拍車がかかるのをほんのちょっとでも防げるんじゃないかしら?と思ってみたり。

[link:1249] 2011年03月21日(月) 19:11


2011年03月18日(金)3月20日(日)下北沢leteのライヴのこと

今週末にもう日がせまったleteのライヴ、とても悩みましたが、この状況においても、自分に与えていただいている場があるのなら、それを大事にしたいと思い、今のところ、開催する予定でおります。
そこに少しでも気分を紛らわせたかったり、誰かと話しをしたかったり、そしてオマケでもなんでも私の演奏を聴くのも悪くないな、と思ってくださる方がいらっしゃるのであれば、その時間を分かち合って、共に過ごそうと思います。
自分が、誰かに何かを与えられるような存在だとは思っていません。
そして私も、こんな時、歌を歌っている場合だろうか?と思わないでもありません。
ただ、私も多くの誰かと同じように、やるせない気持ちがあり、でもかといってそれを言葉にするでもない日々の、ほんの少しの隙間で、誰かとどうでもいい話がしたいのです。

だから、このライヴをやることによって、来てくださった方に何かを与えられるとか、何かを思ってほしいなんて思ってはいませんし、かえって、まるで自分勝手な自分のためにやるようなものだ、と思います(まあ、それはいつもそんなようなことですが)。
まあ、そんなだからこそ、ただの井戸端会議のような、誰かと話したかったり、少し気を紛らわせたかったり、やるせない思いを話すわけでもないけど、なんとなくつながりたかったりする方は、軽い気持ちでどうぞお立ち寄りください。

気持ちに余裕がなかったり、こわかったり、帰りが心配だったり、みなさん色々なご事情が違うと思いますので、どうぞご無理をなさらずに。

当日は節電バージョンで、苦渋の選択で、ピアノはやむを得ず電力を使用しますが、歌はマイクを通さず、ギターも秘密兵器を使い、電力の使用をできる限り控えます。
ちょっとめずらしいライヴになるかもしれません。

おひとりでも、なんだか気を紛らわしに行ってみようかな、というお気持ちになられましたらどうぞお出かけください。

まだ、予期せぬ事態の発生により急に中止する場合がございます。当日のライヴの開催につきましては、この日記、Twitterleteにてお知らせいたします。

[link:1248] 2011年04月10日(日) 17:14


2011年03月14日(月)いま思うこと

東北地方太平洋沖地震で被害に遭われたたくさんの方々に、心からのお見舞いと、亡くなられた方に心からお悔やみを申し上げます。
どうかこれ以上被害が広がらないように、そして、一人でも多くの方の命が助かりますように、強く強くお祈りいたします。
大変な状況のもとでがんばっておられるみなさま、どうか、どうかがんばってください!

こういう時、とにかく、何かできないか、自分にできることは何だろう、と考え続けてしまうのですが、考えれば考えるほど、自分がいかに無力であるかを改めて思い知るばかりで、気が遠くなりそうです。

でもなにもしないことも協力のひとつである、と思えるようになりました。
自分が実際に必要とされた場面で的確に的確なことができるまでは、静かに、ちゃんと状況と動向を見続けることが、今の自分にできることなんだ、と思います。

みな、それぞれにできることや立場が違うので、足し算方向の協力でき、それが本当にプラスに働く力がある人はぜひやるべきだと思います。

でも、自分は、まずは引き算の協力。
次にできることといえば、的確なところへ寄付をする、正しい呼びかけに応じる、求められたら提供する、というような、不足を補うための協力。
それから、世間の、とかじゃなくて、できる限り個人個人の気持ちは尊重する。
たぶん、私にはこのぐらいが精一杯です。
これぐらいのことでは、ほぼ無力にちかいですが、でも、それがちゃんとできるようにがんばりたい。
あとは、これはただの自己満足だと言われる覚悟ですが、とにかくこれ以上、苦しむ人が増えないように念を送る!

「がんばって」という言葉をこれまで、あまり使うのは好きではありませんでした。
なぜなら、なんとなく自分が部外者で、とても無責任にこれを言っている気がいつもするからです。
でもそれも、よくよく考えてみれば、「そういう無責任な感じがする自分」が自分でイヤなだけで、それってつまり、自分を擁護しているだけなんです。

もう、そんなことはどうでもいいです。
今、この場においては、もう何を言っても、何をしても、自分は役に立てない「部外者」に違いないんだ、ということを受け入れた上で、ここで言わなくていつ言うんだ、と思うので言います。
スルーでかまいません。
部外者の自己満足のつぶやきです。
でも心からこう思っています。
どうか、どうか、がんばってください!


[link:1247] 2011年03月18日(金) 00:25


2011年02月27日(日)サンジャックLIVE楽しく終了しました。

ずいぶんとサボってしまいました。
今年一回目の、サンジャックでの熊坂るっちゃんとのDUOにお越しくださったみなさま、どうもありがとうございました。
花粉も飛んでるし、でも寒いし、というわりとツライこの時期、たくさんの方がかけつけてくださって、とてもうれしかったです。
久しぶりにるっちゃんと演奏できて楽しかったし、誘ってくださったサンジャックの平林さんにも、あの場を一緒に過ごしてくださったみなさまに心からお礼申し上げます。

今回は、弾き語りコーナーもあったり、DUOでもるっちゃんの曲もやったり盛りだくさんで、頭の中も心中も大変盛りだくさんになってしまったワタクシでしたが、いつもとはちょっとちがう形態の演奏を試すことができて楽しかったです。

そんな中で、るっちゃんのインスト曲「悲しみ」に詞をつける、というお題が出ていて、これがほんとうに大変でした。
「悲しみ」というものは、やっぱりどうしても言葉にはできないのです。
というか、悲しみというナニカは何か、というのを突き詰めて考えると、「偶然この世に生まれてきたと同時に消滅に向かっている」わたしたちを含めすべての物事にとって、「消えてしまう」という以上の悲しみはないわけで、その悲しみがあるからこそ、喜びがあるわけで、つまり、悲しみとは喜びであるし、喜びもまた悲しみであるし、私たちがここに在ることがすでに喜びであり悲しみでもある、ということを、改めてケッテイテキに思い知ることになり、それについて、わたしが今さら言うべきことはないのです。

でも、こんなふうな機会を与えてもらわなかったら、きっとわたしはこんなにもストレートな「悲しみ」というタイトルの曲を、音を出す以上の言葉で何かを歌う、ということはなかったかもしれません。
そして、そんなにも悩んで、「あまりにも大きくてまっすぐな」悲しみ、ということについて私から出た言葉やっぱり、本当にちっぽけでそっけなく消えていく日常の羅列であったのだ、ということを確認できないままだったかもしれません。

かなしいのはもうわかっている。
でもそれを、誰もがケッテイテキにわかっているから、わたしたちは生き、歩き、歌い、泣き、ふざけ、笑っている。
それは生まれた時には誰も教えてくれないのに、みんなちゃんとわかっているもんだな、と改めて思いました。
だから、その与えられた時間つぶしの間、いとおしくて切ないすべてのいろんなものを大事にしなくちゃ。

[link:1246] 2011年03月14日(月) 23:40

2003年6月16日までの日記


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