『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:1244] 2011年01月13日(木) 22:16
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[link:1240] 2010年11月29日(月) 01:56
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毎年毎年、12月に入ると「え?もう?」と思うのですが、思った途端クリスマス、そして晦日、大晦日、そしてあっという間にお正月なのであります。
というか、師走だけでなく、12ヶ月がもう早い早い。
春かと思ったら梅雨、夏かと思えばもう金木犀、木枯らし、そして師走。びっくりです。
この一年もたくさんのご縁とつながりにめぐまれました。
この数年、このスピードの中でも改めて感じていることがあります。(まあこれは、こんなところで私が語らなくとも、世のヒトビトはとうにそんなこと百も承知だよ、というようなことだと思いますが、こういうことって、自分が実感した時が本当に気がついた時だから、遅まきながら私も「ああ、ほんと、そうだな」と思ったので今書いている、というわけです。)
それは、ほんっとーうに、この世は出会いがすべてだ、ということ。
いえ、すべてだ、というのはちょっと大げさなのですが、どんなにハイパーで高速な電脳世界になろうとも、どんなにお金や技術でなんだってできちゃう世界になろうとも、つまりは「誰かと誰かが出会ったりつながったり」しなければ何も生まれず、いろんなものすごい技術や文明はその、とってもアナログな「出会いやつながり」という原点のために動いていると言っても過言ではないと思うのです。
まあ、すべてがよい出会いであるとは限らず、時として、そのつながりがヨクナイことを生み出すためのものであったりすることもありましょうが、それでも、そこにはそれ相応の出会いがありつながりがある、というのも事実です。
私は会社や組織に属しているわけではないので、日常的に単独行動で、特に徒党を組んだり結束したり、ということとは大変遠いところで日々暮らしているのですが、単独であればあるほど、こういう出会いやつながりはすっごく強く感じられて、見えないつながりの不思議さ、というか心強さ、というようなものをひしひしと感じるのです。
とくに、この数年、ご縁のできた人たちが、実は20年ぐらいに知り合っていてもおかしくない関係にあった、とか、同じく十代の頃に私が紹介したかったけども実現しなかった人と人が去年ぐらいに、別のとてもすてきな形で出会っていた、とか、というようなことが続出していて、人と人のつながりの不思議は本当に面白いです。
なんだか、人生という時間が川のように流れているとしたら(美空ひばり?)、そこに飛び飛びに打たれていた杭に、いつのまにか板が敷かれ、ガタガタだけどもギリギリ通るのに機能する橋のようなものになり、私も含め、いろんな川岸にいた人たちがそこを行き来するようになっている、というような感じ。
でも、同時に、そうやって打ち込まれた杭は、それぞれの人がちゃんと自分で大事にしておかないと、またすぐにどこかへ流れていってしまったり、朽ちたりしてしまう、というのも実感しています。
この世のどんな人も、絶対にこのアナログな原点、人と関わることからからはじまっているはずで、まあ、人によっては、時として、悲しいことにそこから何も生まれなかった、自分は何の出会いもつながりもない、と思い込んでしまうこともあるかもしれませんし、私だって「もう自分にはなにもない」と思ってみたり、激しい孤独感に襲われたりすることもあるんですが、それでも、どこかまで川を遡ってみれば、上流の、ほんの小さな一筋の水の側には草も生えていましょうし、何者かがその水を飲んで命をつないだことも必ずあったと思う。
と、考えると、どんなにヒドイ人も極悪人に思える人も、自分で気がつかないうちに絶対どこかで誰かの何かの支えになったりしたこともあったはずで、そのことに自分が気がつくかつかないかで人生エライ違いだ!と思うのです。
極端に言えば、そのことに気がつく、ということが「感謝する」っていうことなんじゃないかなあ、とも思います。
隣のおばちゃんが柿をくれて、ありがとう、というのも、具体的な柿というモノじゃなくて、隣のおばちゃんが「柿を見て、私にくれようと思い浮かべてくれた現象」自体が本来ならば「有り難い」ことなわけで、その元になる関わりの確率とか考えたらスゴイことです。
自分が何かの時に誰かのことを思い浮かべるのと同じように、自分の知らないところで誰かが自分のことを思い浮かべることが絶対にある、いう事実を自分で認めることができて、人がそれぞれみなそうで、だから自分はいまここにいるんだなあ、と気がつけるってことが、ほんとにものすごい規模で「有り難い」ことだよなー、と思うのです。
だから、「ありがとう」って言葉を使う時には、そこんとこをちゃんとわかって言わなくちゃ、って思いました。
そんなこんなで、この一年、私と出会い、つながってくださった人たち、本当にありがとうございます。
ライヴにお運びくださった方、一緒に演奏してくださった方、ライヴに呼んでくださった方、仕事でご一緒させていただいた方、応援し支えてくださった方、心からお礼を申し上げます。
そしてまだ出会っていない人、出会うかもしれない人、直接はまったく出会わないかもしれない人、塀と塀、塀と家、家と木、木と鳥、鳥と種、種と風、風と遠くの町や国なんかでつながったり、ものすごくうまくいって私の音楽を空気の振動として遠くで受け取ってくださったりして、同時に動いたり泣いたり笑ったり誰かを思い浮かべたりしているすべての人にもありがとう。
また来年もそれぞれの場所で、一緒に泣いたり怒ったり笑ったりしましょう。
来年もどうぞよろしくおねがいいたします。