忘れ物はないね?:2010-07-08

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2010年07月08日(木)旅日記の途中ではありますが、11日にアップップリケショー6を開催するにあたって、そのあたりのことを。

中尾勘二さんのすばらしさを言葉でしかも簡潔に表現するのは難しい。
中尾さんは、例えばスタジオで『ここはこうして、ここはああして、次はこんなにしてください。』『はいはい、こうね、チャッチャッチャ』というようなタイプの音楽家ではない。
ひとつの曲の景色や骨組みが体になじむまで、自分の中で煮たり焼いたり乾かしたり放っておいたりする。そこから出て来たものをまた周りに反応させていく。
まるで、『表面は平熱のようなのに、水に入れてみたら驚くほど熱されていて一気に水を沸騰させてしまう石』とかのようだ。
長く寝かせる時間と、ものすごい早さで反応する瞬発力。
いざ、一緒に演奏して中尾さんから出て来るものを聴くと、その両方がとても意味のあるものとして、その威力が発揮されているのがよくわかる。
今回、中尾さんにどうしても一緒に演奏してください、とお願いするにあたり、中尾さんご本人からまず言われたのは
『時間がかかりますよ。』
そして、
『で、時間がかかって出たものも、思ってるのとちがう可能性があります。』
でも、私は中尾さんと一緒にやりたかった。
とにかくまず、中尾さんの静かだけれどトンデモなく熱を帯びたグルーヴと、お茶目でちょっと笑えてきちゃうような、それでいて、同時に泣けちゃうようなトロンボーンが好きであった。
そして、譜面で伝えられないものを体で受け取って、投げる、という究極ともいえる演奏スタイルの人と演奏したかった。
なぜなら、私の作る曲の多くは、特にこれまでのものは、『それぞれの楽器を奏でる人が自由に』とか『何かに反応して』とか、で成立するタイプのものではなかったから。
そういう曲を作りたいという思いはあったのだけど、結果的になぜかそうならなくて、緻密にピースを作り、組み合わせることで全貌が出現する、ような感じになってしまう。
つまりそういう自分をちょっと壊してみたくなったのだ。

かくして、船は出た。
自分で漕ぎ出したのだから、最後まで漕がねばならない。
他の人たちにも乗ってもらっちゃってるから、むろんのことだ。
私が望遠鏡をのぞきながら『あっちだ!』『いや、こっちにちがいない!』『あれ、まちがえた!』などと大騒ぎしている中、中尾さんが静かな顔で水の下でエンジンをまわしている。トバオさんは寡黙な、しかし的を得た方向へ舵をとる船頭である。
関島さんは、そのすべてを、時にはアグレッシブに、時にはゆりかごのように支えてくれる頑丈な船体である。小舟ではない。
関島さんやトバオさんのすばらしさもここで語りたいのだけど、やはり同様に、簡潔に言葉で表現するのは難しいので次回にすることにする。
しかしつまり、『漕ぎ出した海は広く、時に波も荒く、天気も怪しいが、船は頑丈、エンジン快調、舵も的確』である。
望遠鏡をのぞく私だけが、猿のようにハチャメチャであるが、この機会に恵まれて本当によかった、と心から思う。

7月11日のアップップリケショーは、最初の島である。近くに見えて実は遠くにある島のようにも思えるし、彼方むこうと思っていたらいつの間にか見えていた浜辺にも思える。でもここが着地点ではないことはわかる。そして、もう二度と同じ航路を描けないこともわかる。
せっかくこのメンバーに乗り込んでもらったのだから、このメンバーのみなさんとしかできない航海をしたい。
乗り込んでから、最初の島に着くまでの貴重な『第一章』をすべてひっくるめて、大事に演奏します。
どうかみなさま、観に来てください。

[link:1233] 2010年07月10日(土) 02:53

2003年6月16日までの日記


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