『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
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[link:1190] 2009年12月12日(土) 22:52
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あまりにも有名な寺山修司作品を天野天街の脚本・構成・演出で、ということで、どういうことになってるのか楽しみにしていた。
果たして、予想はしてたけど、もう、完全に天野作品だった。でもちゃんと寺山修司のエスプリっていうのか(フランス語でなく、難しくなくこの感じを表現する言葉はないかしら)そういうのはずっとその天野時空に横たわってて、それでいて体感は完全に天野さんの作品、というのがすばらしかった。
まだ公演中なので、具体的に書くのはやめますが、観てるうち、途中から「その感覚」が実際に舞台に表現されている、それを観ている自分、という「感じ」がこわくなってきて、気持ち悪くなった(←ホメ言葉です)。最後のほう鳥肌がたってしかたがなかったし。平太郎化物日記の時にも特にひしひしと感じたことではあるけど、これは芝居っていうか、やっぱり体感型アトラクション(なんだろう?この薄っぺらな言い方しか思いつかない自分が情けないが)なんだな、って改めて認識した。脚本が、とか、役者さんが、とか、演技が、とか、構成が、美術が、とか、いい芝居、とかそういうことではなくて(いえ実際にはそれらの集合なんだけど)。天野さんが少年王者舘で、昔からやろうとしていることはそもそもそういうことだと思うんだけど、それが回を重ねるごとにすごいことになってると思う。
二足歩行になるまで長くかかったロボットの開発が、二足歩行が可能になったと思ったら次々いろんなことがどんどん可能になってスゴイとこまできてる、みたいな。
って、思いつつ、でも現実にはこれは芝居だから、そこがすごい。
って、なんのことかぜんぜんわかんない感想になっちゃいましたが、ともかくスゴイとこ行ってます。
寺山修司かあ....って人も、寺山修司とか知らない、という人も(これを観ても寺山修司の検証や勉強にはまったくなりませんが)ぜひ観てみてください。23日まで。