忘れ物はないね?:2009-05-03

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2009年05月03日(日)

高校生の頃、RCサクセションのライヴで前から二列目がとれて、アンコールでキヨシローと目が合って、キヨシローが着てたTシャツを投げてくれたのに、隣の席の人に手をひっかかれて横取りされた、というのは、人に話すと皆『ああ、そういうのってみんな目が合った、私にTシャツ投げてくれた、っていうんだよ』と言って相手にしてくれないけれど、その時のライヴのことははっきり覚えています。20年以上前の話。
音楽を作る者としてはあまりにもスゴすぎる先輩だけども、面識はないから『清志郎さん』なんて図々しくて言えない。ひとりのファンとして、尊敬と親愛の気持ちを込めて、やっぱり『キヨシロー』と呼び捨てにするほうがしっくりくる。

どんとも死んじゃった。
キヨシローも死んじゃった。

死んじゃった、というのがなんとも信じられない不思議な感じで、キョトンとしてしまうけども、わかっていることは、キヨシローという存在はあちらにもこちらにも確かにずっとあり続けるし、大好きな歌もいっぱいあるから、これからも時折聴いたり歌ったりすると思います。
ただ、キヨシローという人から、この先の新しい記憶が生まれなくなってしまったことがとてつもなくかなしい。

やってくる端から次々と過去になっていってしまう止まることのない、この世では『時間』と呼ばれているモノは、当たり前だけど、何物の上にも等しく止まることはない。とにかく、自分にもソレは後から後から注いできては流れていくのだから、出来る限りソレを大事に過ごそう、それが生きるってことだよなー、とキヨシローの生きた姿を見て改めて思いました。


[link:1106] 2009年05月06日(水) 01:56

2003年6月16日までの日記


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