『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:898] 2007年09月03日(月) 23:34
観るのは2回目。毎度のことだが、少年王者舘の芝居の感想は『体感』でしか言うことができない。よかったかよくなかったかと聞かれればもちろんよかったと答える。でもよかったとかよくなかったとか、そういう感想はものすごくどうでもよいもののように思える。それよりも『何がやって来たか』というような感覚的に受け取ったことのほうがはるかに大きく、それをちまちま文字につむぐしかない。今から言おうとしていることもまさにそれで、多くの人は読んでも意味がわからないかもしれません。
天野さんは、少年王者舘は、根底に横たわるテーマというかやってることはずっと同じだ。変わっても変わってもまったく変わらない核というか管というかのようなモノがある。いや、反対で、その核というか管というかのようなモノがあるからやっている。今回の芝居はいつもよりよりイメージがくっきりはっきり伝わるように作られているようで1回目に観た時はその躊躇のない包みのない感じがちょっとハードボイルドだぜ、と感じた。2回目はそのハードボイルドさに自分を慣らしてから観る。当然だけど、よりはっきりとイメージが見え、1回目では像を結ばなかったモノまでくっきり浮き出して見えた。
ついにそれを言っちゃったか、と思うところもあった。
私の非常に非常に個人的な心の中にある尺度でいうと、もう6mmぐらい引っ込んでるはずのものがそこにむき出しで出ているために感じる痛さっていうか違和感ていうか知覚過敏っていうか、そんなもの。それに触るな、と思うものにも『触って見せる』。つまり今回はそういう作品であったということだ。新鮮でもあり、珍しくもある分類の引き出しにしまっとこう。
それから今回、石丸さん、カシワさん、いむじいといった古くからの人たちが出演している中、天野さんもずーいぶん久々に役者で登場して、なんかグッと来たのだった。なんか『ゆるぎのない確信のある新人さん(?)』を見るようなドキドキ感がないでもなかった。役者さんたちはみなかわいかったでした。
田岡さんの顔も見れたし。
しかしいざおなじみの顔を見ると、なーんか照れくさいのだ。だからいつも『久しぶりー』『よかったよー』とかあれやこれやということもナシに、『HPの更新が遅い』とか、『髪型がよい』とか、どうでもよいような話をして終わりになってしまう。しかし「歯のない神様」ハマジには会えず、少々ものたりない気持ちに。以上、感想そんなこんなでした。
普段、自分が表現する側にいると、自分も同じく、『根底にある内容』というのは驚くほどいつも同じことを歌っているにすぎないのだけど、だからこそ、それを『どのくらいのさじ加減にするか』ということがものすごく重要な部分を占めている。つまり例えば『あいうえお』という内容の歌を『あいうえお』と歌わずにどれだけ『あいうえお』にするか、ということ。
ピストルで『あいうえお』と打ち抜くか、あぶり出しで『あいうえお』と浮き出させるか。あるいは『あいう』で止めるか『あいうえ』まで出すか。
結局、自分が何かを見たり聴いたりする時には、常にその『さじ加減』を感じているのだということに改めて気がついたのでした。しかし、いつもいつもそのさじ加減ばかりにとらわれていると、熱した衝動がもったいないことになることもたぶんたまにある。だから時には衝動を衝動のまま出したほうがいいのかな、と思う時もあり、悩みはつきない。ああ、表現には、いや、人生にはバランスとコントロールが重要だけども、バランスが良すぎても気持ち悪いのだ。なんと難しいことか。