『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:896] 2007年09月01日(土) 22:51
[link:895] 2007年09月01日(土) 01:46
[link:894] 2007年08月30日(木) 00:12
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[link:892] 2007年08月24日(金) 13:56
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十月のleteのことを、現在、南イタリアからフランスへ移動して更に旅の途中の川口さんと相談する。日本語のフォントが入っていないパソコンかららしく、ローマ字日本語のメールがくる。
インターネットというものがなかったら行方の知れない旅人はずっと行方の知れない人のままだが、今はそんなとんでもないところにいてもどこからでも信号を送り合って話をすることができて便利。インターネット以前に文字という記号があってこの世はすごいです。加藤千晶とのんき大将という意外にレアな組み合わせ、一体どういうことになってしまうんだか。
カナダへ行くのに、近所の大きなお寺へ『旅行安全祈願』のお守りをもらいに行く。母をつれてのフリー海外、心配し出すとキリがないからせめてものゲン担ぎ。
本堂にあがるとお寺の人が何人かヒマそうにしていて、お守りをお願いするとみんなでかかりきりになってくださり、『いつもはつけないんですが今日は特別に』と、お守りの他にもうひとつここぞという時に利くという『護符』までくださった。
前にお祭りか何かの時に来た折、ちょうどあちこちの賽銭箱を集めて会計をしている微妙に生々しい場面を目撃して、『お店?』と若干複雑な気持ちになったりしたのだが、こうしてたまにはオマケをしてくれる、ということで好感は持ったものの更にお店っぽい感じもしないではない。
が、そもそも考えるとお寺とは、訪れる人のよくないことを治してあげるお店のような位置づけ(?)のような気もするので、『くれるものはもらい、あげられるものは差し出す』という変に高尚ぶらない実直な姿勢で別にいいのか、と思い、納得する。
無事に行って帰って来られますように〜〜〜!(まだちょっと先だけど)