『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:875] 2007年07月19日(木) 01:15
私はたまたま新潟に親戚とか友人とかはいないのだけど、それはほんとに偶然で、いつ自分や家族や友人などが住む所に大きな災害が起きても不思議はないから、他人事とは思えない。
新潟は2歳の時から毎年冬にスキーに行っていた。名古屋から片道およそ8時間ぐらいの道のりを車に乗って『赤倉』というスキー上へ行っていたのだ。今ではスキーなんて何年も行っていないけど、私は赤倉でスキーを覚えたし、雪道で藁靴をはいてオバケのQちゃんのバッグを持ってスキー帽をかぶって「イーダ」という顔をしている写真もばっちり残っている。『熊堂』というゲレンデで滑っていて、転んだところに雪の中からお札に端っこがのぞいており、3千円ぐらい拾って、その夜温泉に行ったら洗い場の隅っこに百円玉が6枚ぐらい積んであって、1日でずいぶんお金を拾ったこともあった。毎年おなじ旅館に泊まっていて、そこのなんかよくわからないけど力仕事全般をやるおじさんに藁靴を編んでもらったり、地下にある、お客さんのスキーウエアやブーツなどを乾かしたり板のチューンナップをしたりする『乾燥室』というサウナみたいな熱い部屋でいろんな人たちとでっかいストーブを囲んでおやつを食べたりおしゃべりをしたりするのもすごく好きだった。
スキー場自体、もう昔みたいにものすごい雪は積もらなくなってるのかもしれないけど、また行ってみたいなーと思っていたのだ。今後もくれぐれも気をつけて、とにかく、一日も早く地震の傷が治りますように。
某番組で担当しているBGMシリーズの締切が近づき、3曲分のスケッチ。頭の中がやや忙しいです。