『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:866] 2007年07月03日(火) 01:01
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あれ、今日も来た、トフー屋さん。ひょっとして毎日?いや、そんなはずは. . . . 。
夜、めったに会うことのない、大変大切で尊敬するミュージシャンの人に会い、ごはん。今日も長靴で出かけた。
このところ、自分のやることなすこと気に入らない自己嫌悪気味で、なんだかなあ、という感じだったのだが、まあそういう時もあるよな、とややゆとりある心持ちになることができた。気に入らなくても、とにかくそこを通過していかないことには先へは出られないものねえ。
親友からの久しぶりの手紙で、偶然にもまったく同じ鍋(世間的にはそんなに知名度のないメーカーで、実際二人とも、それを偶然見つけるまで知らなかった。)を買って使っていることが判明し、それもなんだかそこはかとなくうれしいできごとなのだった。その子とはお互いの趣味とか物事の受け止め方とかもよく似ているし、わかっている旧知の間柄だが、今では1年に3回ぐらい会えるぐらいになってしまった。しかし、聞いてみれば、お互い、最初に買うつもりだった鍋(結構知名度あり)があった(ちなみにその鍋も同じだったのも笑った)のにもかかわらず、それを買う直前にこの鍋を偶然見つけてやっぱりこっちを買ってしまった、という展開まで同じなのだった。そのアンチ具合も大変絶妙で、さすが我々だ、と思った。高校時代には、一緒に買い物に行くと、たびたび気に入る服がかぶって取り合いになるので、一緒に買い物に行かないようにしていたが、それでもかぶってしまって仕方なく色違いや形違いを買い、別々の機会に着るなどしていたものだったが、今となっては離れて暮らすそれぞれの生活の中で、それでも尚、同じ鍋を買ったりしているようなことが、なんだかやけにうれしくもあり、成長してないなー、と笑えたりもする。
人と人とのつながりの、その連結部分というのは、まあたとえばこんな鍋とかだったり、笑う箇所だったり、返事のしかただったり、作り出す響きだったりと、たいていはものすごくささやかな部分だ。でも、いつもがっしりと手をつないだりしているわけじゃなくても、どんなにショボい連結部分でも、そこでしっかりとつながっているというのは、つまりそれはしっかりとつながっているということなんだなあ、と改めて思うのでした。
いつも近くでおこったり笑ったり遊んだりしている人々はもちろんですが、そういうふうにどこからともなく、別に意図もせず、つながったところからいつの間にか力をくれる、えーとつまりは、まわりのすべての人々、本当にいつもありがとう。なんちゃって。いや、やっぱりありがとう。