『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
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それはそうと、『井の中の蛙大海を知らず』ということわざは中国の荘子が言ったものだそうですが、それが日本に伝わった後、『井の中の蛙大海を知らず、されど、空の深さを知る』という付け加えがなされていたいうのは初めて知りました。見解の狭さ、大局的な判断ができないことをある種戒める、ということわざも、そうなるとこれまた少し意味がかわって更に奥が深く、『でもまあ、それはそれでよい部分もあるけどね』という器の広い解釈になる。まあ’そんなのへ理屈だよ’と言う人もいるだろうけど、さすが日本人、と思うところでもあります。
でも、よくよく考えてみると、『井の中の蛙大海を知らず、されど、空の深さを知る』と、このような見方のできる人はつまり井の中にいようが塀の中にいようが『井の中の蛙』ではないわけで、本当の井の中の蛙というのは、本人はせっかく空の深さを知ってるのに、『自分は空の深さは知っているけど外の海の広さは知らない』ということ自体を知らないまま空の深さばかりを極めることになり、端からみるとやはり残念なことには変わりありません。
この「『自分が知らない』ということを知っているか知らないか」、というのが大変大きなポイントです。そして、「『自分の知らない事柄を知っている人は世の中にはたくさんいる』ということがわかっているかいないか」も大変重要。
自分の知っていることだけで物事を完結させるのは、作業的には大変かもしれないけど、もっと大きな意味でいえば簡単。緻密で巨大でものすごく大変だけど、完成はわかっているジグソーパズルに挑むような感じでしょうか。できあがった完成品も見事なものかもしれないけど、それを一人でやっても、何人で力を合わせてやっても、出来上がりは寸分違わず決まっている。もし、それが人生だったとしたら私は絶対にイヤ。人生だけじゃなくて、音楽だったとしても、私はイヤ。
私にとっての音楽はジグソーパズルとは違う。確かに、自分で描く完成図、というものは一番始めには確実にあります。でもそれに沿って自分一人で作ったとしても、できあがるまでに起こったことや出会った人や、見たことや聞いたことや思ったことが自分の中で混じり合って、最初の完成図からはやっぱり少しちがったものができあがるはずで、それはやっぱり自分だけで作り上げたものじゃない。作り始めから完成まで誰にも会わず、何も考えを変えず、何から何まで自分一人でこつこつやれば、たぶん最初の完成図通りになるだろうけど、そうやってできあがったものは、できあがりがどうであれ、たぶん作り終わったと同時に私の中でもおしまいになると思う。できあがったらすぐに次に移ってしまうんじゃないかな。芸術、というものの中にはそうやって作り上げていく方法もあるし、それが悪いとは全然思わない。悪いどころか、それができるほどに空の深さを知っているというのはすごいことでもある(でも同時に、気がつきさえすれば、その空の深さは井戸の外でも知ることができるけどなあ、とも考えるけど)。でも、とりあえず音楽に関してはそういう作り方はイヤだなあと思う。音楽ってそんなもんじゃないと思うのです。自分に見えているものだけしか信じない音楽や、先が何も感じられない音楽なんてつまんないじゃない、って。だから自分が井戸の中にいて、もしそこから出られないとしても、だったら自分は自分の知ってる空の深さを歌い、外にいる誰かに海の広さを歌ってもらって、それが足したりひいたりされて、よい具合に組み合わさって一つの歌になったらいいのになあ、と思います。少なくとも私はそんなふうにして音楽を作りたい。