忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2007年06月26日(火)

今日も雨。このへんは田んぼも池もないのに、道路でよくカエルに会う。今年はまだ会っていないけど、そのうちに会うことでしょう。たいてい夜の暗い道に石ころのようにじっとしているので、石だと思ってたものが突然目の前で動いて飛び上がるほどびっくりする、というパターン。井戸が少なくなった今、井の中にいる蛙というのはすごく少なくなって、蛙もこんな町の中を悠々とお散歩する今日このごろです。

それはそうと、『井の中の蛙大海を知らず』ということわざは中国の荘子が言ったものだそうですが、それが日本に伝わった後、『井の中の蛙大海を知らず、されど、空の深さを知る』という付け加えがなされていたいうのは初めて知りました。見解の狭さ、大局的な判断ができないことをある種戒める、ということわざも、そうなるとこれまた少し意味がかわって更に奥が深く、『でもまあ、それはそれでよい部分もあるけどね』という器の広い解釈になる。まあ’そんなのへ理屈だよ’と言う人もいるだろうけど、さすが日本人、と思うところでもあります。
でも、よくよく考えてみると、『井の中の蛙大海を知らず、されど、空の深さを知る』と、このような見方のできる人はつまり井の中にいようが塀の中にいようが『井の中の蛙』ではないわけで、本当の井の中の蛙というのは、本人はせっかく空の深さを知ってるのに、『自分は空の深さは知っているけど外の海の広さは知らない』ということ自体を知らないまま空の深さばかりを極めることになり、端からみるとやはり残念なことには変わりありません。
この「『自分が知らない』ということを知っているか知らないか」、というのが大変大きなポイントです。そして、「『自分の知らない事柄を知っている人は世の中にはたくさんいる』ということがわかっているかいないか」も大変重要。
自分の知っていることだけで物事を完結させるのは、作業的には大変かもしれないけど、もっと大きな意味でいえば簡単。緻密で巨大でものすごく大変だけど、完成はわかっているジグソーパズルに挑むような感じでしょうか。できあがった完成品も見事なものかもしれないけど、それを一人でやっても、何人で力を合わせてやっても、出来上がりは寸分違わず決まっている。もし、それが人生だったとしたら私は絶対にイヤ。人生だけじゃなくて、音楽だったとしても、私はイヤ。
私にとっての音楽はジグソーパズルとは違う。確かに、自分で描く完成図、というものは一番始めには確実にあります。でもそれに沿って自分一人で作ったとしても、できあがるまでに起こったことや出会った人や、見たことや聞いたことや思ったことが自分の中で混じり合って、最初の完成図からはやっぱり少しちがったものができあがるはずで、それはやっぱり自分だけで作り上げたものじゃない。作り始めから完成まで誰にも会わず、何も考えを変えず、何から何まで自分一人でこつこつやれば、たぶん最初の完成図通りになるだろうけど、そうやってできあがったものは、できあがりがどうであれ、たぶん作り終わったと同時に私の中でもおしまいになると思う。できあがったらすぐに次に移ってしまうんじゃないかな。芸術、というものの中にはそうやって作り上げていく方法もあるし、それが悪いとは全然思わない。悪いどころか、それができるほどに空の深さを知っているというのはすごいことでもある(でも同時に、気がつきさえすれば、その空の深さは井戸の外でも知ることができるけどなあ、とも考えるけど)。でも、とりあえず音楽に関してはそういう作り方はイヤだなあと思う。音楽ってそんなもんじゃないと思うのです。自分に見えているものだけしか信じない音楽や、先が何も感じられない音楽なんてつまんないじゃない、って。だから自分が井戸の中にいて、もしそこから出られないとしても、だったら自分は自分の知ってる空の深さを歌い、外にいる誰かに海の広さを歌ってもらって、それが足したりひいたりされて、よい具合に組み合わさって一つの歌になったらいいのになあ、と思います。少なくとも私はそんなふうにして音楽を作りたい。


[link:863] 2007年06月28日(木) 22:46


2007年06月28日(木)

ぼやっとしている間に6月も終わり。6月は30日までですね。
このところ、絵を描くのに専念しています。暑いのでタオルを頭に巻いて、魚屋さんのおばちゃんのようです。
夕方、外をとうふ屋さんのバイクが『トフー』といいながら走って行って、一度買ってみたいと思うんだけど、どうしても間に合わない。このとうふ屋さんはよくきく『プ〜(ラッパ)と〜ふ〜』というのとはちょっとちがい、『ビャー(ブザーのようなラッパ)トフー!』と早い。そして3秒ぐらいシーンとして、たちまちブィーンといってしまうのです。ここに住んで7年目だけど、一度も挑戦できない。今度しっかり曜日と時間をおぼえて待ち構えててみるか。

私は小さい頃なりたかったのは『とうふ屋さん』と『歯医者さん』で、歯医者さんは自分がかかるのは死ぬほど怖くていやだったが、歯医者さんになればみんなの『のどちんこ』が見れるんだ!と、何か歯医者さんになると『ものすごく得なこと』があるように思っていました。それと同時進行でなりかったとうふ屋さんは、昔よく母についていっていた市場のとうふ屋さんで、とうふの水槽が滝のように段々になって、その段ごとにいろんなとうふが浮いており、注文するとおねえさんが青い透明のうすっぺらーいプラスティックの容器で滝の中に手を突っ込んでフワ〜ンと豆腐をすくってくれるのがたまらなかった。大きくなって、トルコのスパークリング温泉観光地『パムッカレ』を見た時、ものすごく心ひかれ、コレダ!と思ったものです。『とうふの滝』と形状はほぼ同じ。パムッカレ全体は石灰棚だそうです。どうやらそういう段々になっているところに水がたまり、流れ、あふれている光景が好きなようです。理由はよくわかりませんが。それから、いつかいつかパムッカレに行きたいと思っていたけど、もう今は石灰棚がどんどん汚くなってしまって、一部しか立ち入ることができないそうですが、でも行ってみたいなあ。


[link:864] 2007年06月30日(土) 00:34


2007年06月30日(土)

むう。曲を作っている。この間leteでやっ(てみ)た新曲『長靴賛歌』にイントロをつけよう(この間はナシ)。それと、ちがう曲。むむう。
昨日色をつけて完成させたイラスト5点をキコキコ商店のSさんに送った後、別のMacで見たら、さっき死ぬほど苦心した色が、なんか違って見える。若干顔色の悪い人を描いたつもりだったが、別のMacではものすごく病気の幽霊のようになってしまっていてコワイ。まさに幽霊でさらに病気、という感じがする。いいのだろうか(判断は自分で)。犬の色もへんだし。
モニタの違いで色が違うってことをすっかり忘れていた。自分でプリントアウトしてみてないので、本当の色がどうでるのか心配になってきた。プリントアウトしてみて確かめなければ。
またLee Dorseyにやられている。
「北あかり」というじゃがいもはぽくぽくでおいしい。

そうそう、書き忘れた。昨日の日記にトフー屋さんのトフーを買ってみたいと書いたばかりだったが、今日、来た。またあっという間に通り過ぎて行った。ということは、金曜だな。金曜の. . . . . . えーと、あれは. . . . . 。時間はまったく覚えていない。おそくまで明るいので予想もできん。まあ夕方、か。


[link:865] 2007年07月01日(日) 01:09


2007年06月30日(土)

夕方、出かける準備をしていると、『ビャー、トフー。. . . . . . . (シーン)ブィーン』という音が。
あれ、今日も来た、トフー屋さん。ひょっとして毎日?いや、そんなはずは. . . . 。

夜、めったに会うことのない、大変大切で尊敬するミュージシャンの人に会い、ごはん。今日も長靴で出かけた。
このところ、自分のやることなすこと気に入らない自己嫌悪気味で、なんだかなあ、という感じだったのだが、まあそういう時もあるよな、とややゆとりある心持ちになることができた。気に入らなくても、とにかくそこを通過していかないことには先へは出られないものねえ。
親友からの久しぶりの手紙で、偶然にもまったく同じ鍋(世間的にはそんなに知名度のないメーカーで、実際二人とも、それを偶然見つけるまで知らなかった。)を買って使っていることが判明し、それもなんだかそこはかとなくうれしいできごとなのだった。その子とはお互いの趣味とか物事の受け止め方とかもよく似ているし、わかっている旧知の間柄だが、今では1年に3回ぐらい会えるぐらいになってしまった。しかし、聞いてみれば、お互い、最初に買うつもりだった鍋(結構知名度あり)があった(ちなみにその鍋も同じだったのも笑った)のにもかかわらず、それを買う直前にこの鍋を偶然見つけてやっぱりこっちを買ってしまった、という展開まで同じなのだった。そのアンチ具合も大変絶妙で、さすが我々だ、と思った。高校時代には、一緒に買い物に行くと、たびたび気に入る服がかぶって取り合いになるので、一緒に買い物に行かないようにしていたが、それでもかぶってしまって仕方なく色違いや形違いを買い、別々の機会に着るなどしていたものだったが、今となっては離れて暮らすそれぞれの生活の中で、それでも尚、同じ鍋を買ったりしているようなことが、なんだかやけにうれしくもあり、成長してないなー、と笑えたりもする。
人と人とのつながりの、その連結部分というのは、まあたとえばこんな鍋とかだったり、笑う箇所だったり、返事のしかただったり、作り出す響きだったりと、たいていはものすごくささやかな部分だ。でも、いつもがっしりと手をつないだりしているわけじゃなくても、どんなにショボい連結部分でも、そこでしっかりとつながっているというのは、つまりそれはしっかりとつながっているということなんだなあ、と改めて思うのでした。
いつも近くでおこったり笑ったり遊んだりしている人々はもちろんですが、そういうふうにどこからともなく、別に意図もせず、つながったところからいつの間にか力をくれる、えーとつまりは、まわりのすべての人々、本当にいつもありがとう。なんちゃって。いや、やっぱりありがとう。


[link:866] 2007年07月03日(火) 01:01


2007年07月02日(月)

日曜日の情熱大陸はイラストルポライターの内澤旬子さんだった。内澤さんは、以前私のことを『ぐるり』という冊子の中で紹介してくださった南陀楼綾繁さんの奥様で、『ふちがみとふなとと加藤千晶』の時にご夫婦で観に来てくださった。その後、千駄木の古書ほうろうで一度だけお会いしたことがある。スラッと背の高い涼しげなきれいな方で、その時の印象では、そのカラダの奥底にあんなとんでもないパワーとエネルギーが潜んでいるとは気がつかなかった。番組を見てびっくりしたのだ。もちろん画面でも、ご本人は私の第一印象どおり、至って淡々と軽々と、「自分の興味の湧くものを追求しるとこうなっちゃうんですよ、あんまり世の中の記録に残って行かないようなことが好きみたい、アハハハハ」なんて笑ってらっしゃるんだけど、なんだかとにかくスゴイのだ。不勉強にも、今まで一冊も内澤さんのご本を読んだことがなく、さっそく古書ほうろうに買いに走ろうと思っている。

[link:867] 2007年07月04日(水) 00:31

2003年6月16日までの日記


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