『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:854] 2007年06月16日(土) 00:42
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新しい曲の続きをつくる、その間にもお茶を飲み飲み若鮎。
お茶は心と直結している飲み物だから、一人での仕事中や作業中にお茶を飲む回数が多い、というのは、無意識のうちに自分をほめたりなぐさめたり励ましたりしている回数が多い、ということでもある。なんかうまく行ったからご褒美で一息、その反対に煮詰まっちゃって逃げ出したい自分を励ますのに一息、とそんな具合。
喫茶去という禅の言葉がとても好きなのですが、『よくおいでになりました。まあ、まずはお茶でもどうぞ。』というそれ以上でもそれ以下でもないこの言葉の真意は、つまりどんな人にも(例えば自分のきらいな人や、大事な用に遅れて来て着いた途端言い訳をはじめる人などにも)『まあ、まずはお茶でもどうぞ』と言えてしまう心の持ちようにある。
たぶん今よりももう少し前の時代には、きっと個人レベルでどんな人の気持ちの中にもお茶を出す、出さない、の重要性がもう少しあったんじゃないかと思う。だからこそ、喫茶去の域なんかにはなかなか到達しようのない私みたいな不出来なタイプの人間は『フン、二度と来るなヨ、来ても茶なんぞ出してやらないよ、コンニャロめ!』というような憎まれ口をたたく場面がたくさんあったことでしょう。
テーブルをはさんで、ぼやーとストローでグラスをぐるぐるぐるぐるかきまわし続けるお茶も、あれはあれでいいもんですが、特にやっぱり目上も目下も目的も状況も関係なく『よくおいでくださいました。まあ、とにもかくにも、おひとつお茶でも』と出されるお茶には、それだけで何かが軽くなるようなナニカがあると思う。なんかこう今まで一人で背負ってきた思い荷物が、具体的な重さはそんなに変わらないのに、気がついたらアレ、なんかちょっと軽くなったんとちがう?あ、一緒に持ってくれてたんだ?うわあ、アリガトウ、みたいな。
私もいつもそうやって軽やかに何気なくお茶を出し続けたいもんです。人にも、それからまあ、自分でも。