『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
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でも歌詞がまだ穴ぼこであいているなあ。
この前スーパーに行った時、なんとなく普段買わないものを買ってみようと思い、麩のコーナーを見てみたら、車麩とかいろいろ楽しそうな麩があって、一人で盛り上がった。麩って食べるのはたいていお吸い物に入ってる小さいやつがほとんどで、それすら食べる時はそんなに『麩だ』と思って食べないので、麩にこんなに種類があるとは知らなかった。小さい時に金魚を飼っていた時にエサでやったり、箱根のデカい池のある旅館に泊まった時に野球のバットぐらいの棒状の麩を渡されて池の鯉にやってください、と言われたりした時ぐらいだろうか、麩の存在というものを意識したのは。でも鯉の時はとにかく鯉がデカくていっぱいいて、バクバクあの口をあけて飛び上がったりするので、気持ち悪くて麩のことを考えてるどころではなかった。
それで、陳列棚にいろんな種類の麩が並んでいるのを見てなんか楽しくなって思わず『仙台麩(あぶら麩)』というのを買ってしまった。
どうも煮物とかに入れるらしいが、まだそのままになっている。
こうやってなんとなく買ってみたが、よく使えなくて放置されているものは他に『大豆缶』、『乾燥めかぶ』、『上新粉』、など。年末には一応それらのものをどうするか気にはなる。