『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:715] 2006年09月22日(金) 00:49
[link:714] 2006年09月20日(水) 23:43
[link:713] 2006年09月20日(水) 00:40
[link:712] 2009年05月21日(木) 01:35
[link:711] 2006年09月17日(日) 00:10
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ライヴ当日も、遠くに住んでいてもう何年も会っていない人や、忙しくてすれ違いが多くあまり会うことのなかった人も来てくれて、一方でその日初めてお会いする人もいて、でも話していたら、その人と、今この場にはいないけどつい最近までよく連絡をとっていた人がそこに居るあの人の後輩で、はたまた、翌日に、ライヴに来てくれて15年ぶりぐらいに会うことのできた人のアトリエを訪ねると、きのう初めて紹介されたあの人と親しかったり。
こういうことがあるので、人とのご縁というのは面白い。ずうっっと会わなくても全然ご縁が切れてしまったとは思わない人はやっぱり必ずまたどこかで出会うものなのだ。たとえ15年に1度しか会わなくても(そりゃ頻繁に会えたら会えたほうがうれしいが)、その周期がその人と私の周期なのだな、と改めて思う。しかしこの年になると、どこかで必ず誰かがつながっている。。。こういう感覚ってやっぱり人間特有のものなのだろうか。例えば猿なんかの世界にも何かそういうドラマみたいなのがあるのだろうか?よくドキュメンタリーとかで『あれは3年前に群れを離れたヨサクだ』とかやってるような気がするけど。
今朝の4時までリリー・フランキー『東京タワー』を一気読み。号泣。みんな泣く泣くと言っていたが、こりゃあ泣きます。うっかり読み出してえらい目にあってしまった。しかも泣くところが長い。クライマックスのあたりはもう涙が流れるっていうより嗚咽に近くなってきて、さすがに疲れた。小さい頃、私が居間でみなしごハッチを観てるなーと思ったら突然『わーーん!!!うわーーーーーん!』とものすごい号泣が聞こえてきて思わず鍋をひっくり返しそうになった、と母が言っていたことを思い出した。リリー・フランキーという人に今までそんなに興味を持ったことはなかったし、それ以前に何をしている人なのかあんまりよくわかってなかったんだけど、テレビでたまに見かけるそういうユルーいうさん臭いイメージとのギャップもかなりあって、一本とられた。それは、いわゆる『そういうユルーいうさん臭い人がものすごい文才でもって、文壇に嵐を起こすような小説を登場させた』ということではなくて、『どこまでも普遍的な事象をどこまでも個人的なフィルターを通して、その人柄でしか表せない表現で、包み隠さず、でも決して自己満足でなく書き綴っている』ところがよかった。
明け方にあまりに泣いたので翌朝目ががすごいことになっていてまいった。なので、今日からは泣かずにすむミステリです。