『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:440] 2005年05月23日(月) 01:37
[link:438] 2005年05月21日(土) 00:29
[link:437] 2005年05月20日(金) 01:57
[link:436] 2005年05月18日(水) 23:26
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リハスタで目張りして中でこっそり撮った。
写真自体はいいんだけど、これってほんとにいけてるのか?
この写真が陽の芽を見ることはあるのだろうか。
と、前回同様、現像からあがってきたモノを見て思う。やっぱりバカっぽい。妙だ。まあいいのかな。いいよね?ね?
おつかれさまでしたー。
きのういとこが持って来てくれた、べらぼうにおいしい『岡埜栄泉』の豆大福。きのう食べたらすっごーくすっごーくおいしかった。今日食べたらおいしいにはおいしいんだけど、柔らかさがぜんぜん違ってた!考えてみれば当たり前のことだけど、次の日もその次の日も味や風味が不自然にキープされてる食品の多い昨今、1日こんなにちがうというのは、ほんとにその日のそのお餅のもつ本来のキープ力にまったく逆らわずに大福が作られているわけで、劣化を恐れず堂々とその時のみで勝負する、見上げた職人魂だと思いました。だからその価値はすごいものがあるわけで、それはすなわちライブという、ひいては音楽という『空気の振動』とも同じことだと。妙に納得。かたや録音物とか干し柿といった保存する良さ、というのもあり、こうして考えると『違い
』がよくわかる。つまり大福はライブであるとあらためて実感したのでした。