『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:343] 2004年12月20日(月) 01:15
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まったく偶然に読んだだけのとある解説によると「それから」は漱石自身が自分の作品の中で、後の漱石文学の柱であるといわれる(←まったく受け売り)「近代精神の文学化」を開花させた(←同じく受け売り)作品らしく、斬新だが荒削り(←だそうだ)な「吾輩は猫である」とかそのあたりの作品からくらべると熟しているものらしい。
そう言われると、じゃあそれ以前のやつも読んでみようと思い、次に「坊ちゃん」も読んだ。こちらも非常にわかりやすい。で、いま「こころ」を読むところだ。この読み方はまったく年代を無視していて、非常にかいつまんで作家の代表作を読んでいるというとっても不真面目なやり方だけど、まあそれはよし。
こうして読んでみると、どの作品を読んでもその文体というのはとても特徴的であることが改めてわかった。どう説明してよいのかわからないけど、なんかこうなめらかな食パンにすい、すいとバターとのばしていくような文章なのだ。書いている内容によどみや陰影があっても、文体によどみがない感じ。どんどん読み進んでしまうのはそのせいもあると思った。複雑な心境とか状況を一筆書きのように表してしまえるってすごいなあ、と思った。学校の推薦図書になったりする文豪はなるほどそれだけのことはあるのだ(←アホな感想)。森鴎外だけは「舞姫」がぜんぜん面白くないなーと思って(内容は全然覚えていない)、わりと避けてたフシがあったが、それも今読むと違うのだろうか。