『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:89] 2003年10月24日(金) 23:01
[link:88] 2003年10月24日(金) 22:49
[link:87] 2003年10月20日(月) 22:09
[link:86] 2003年10月20日(月) 22:06
[link:85] 2003年10月18日(土) 00:59
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私はヒールのある靴があまり好きではない。なので大体においてぺたんこの靴を履いているが、ぺたんこの靴は冬にはアスファルトの冷たさが靴底を伝わって足を冷やし、それがお腹まで冷やし、しょっちゅうお腹がキュウッと痛くなって困るのだ。そんな折、靴の中側にモヒャモヒャ〜と毛が生えている(もちろんホンモノの毛ではない)靴を見つけた。そのとあるデザイナーの靴だ。靴を脱がなければわからないが、脱ぐと中がぬいぐるみの表面みたいになっているのだ。そもそも私は『見えないところが凝っている』というのが好きだ。というよりむしろ『見えるところだけ見栄えがよければいい』というのが嫌いだ。要するに舞台のソデに引っ込むと同時に踊りをやめるな、ソデに体が隠れて少なくとも1mぐらいは踊りつづけろ、ということである(この説明もどうか?)。しかし、かといってガクランの裏地に金色の龍の刺繍が...というのが好きかというと好きではない。それは明らかに『見られる』ことを意識して作られた裏地だからである。見られたいなら表地に龍の刺繍をすればよい。制服という抑圧の中で主張できる所は裏地しかないのだから、という理由は変だ。裏地に龍の刺繍をするような人はたぶん校則とかはすでに守っていないだろうし、守っているように見せかけて着用している制服も形が長すぎたり太かったり細かったりしておかしいのだから、いっそ守っていないのなら別に制服の表に龍の刺繍をすればいいのだ。『見ろー、龍だ龍ー』というほうがわかりやすくて楽しい。しかしどうしても裏地に龍の刺繍がしたければ、より見られる可能性の低いズボンの裏地にすべきである。しかしそのズボンも表向きは太かったり長かったり短かったりしてはやはり台無しだ。あくまで普通のズボン。というように、私の好みは『見えなくて当然。でもそんな見えなくて当たり前のところにこんなものが..』というのがそうである。しかもその見える方の側はあくまで「さりげない」のがよい。一見普通、でもよく見るとそうなんだー、というバランスは大切だ。
で、まあ話を戻すと、つまりその靴の中がぬいぐるみ状というのが結構うれしくて、つい買ってしまった。冬はあったかいかも、という思いもあった。しかし、その靴は表側が金色なのだ。金色。ぜんぜんさりげなくない。その点で私もかなり迷った。けど、案外履くといいかもな、なにしろ中がぬいぐるみ状になってるし、とわけわかんない納得をして買ってしまった。が、案の定、会う人みんなに『金色の靴履いてる、金色の靴だ』と指摘されてしまった。やっぱり目立つか...。そう、この靴は脱いで中のモヒャモヒャをわざわざ見せなければおばちゃんが社交ダンスに履いてるような金色の靴なのだ。やっぱり...。こうなると、もう会う人会う人『ホラみて中が毛なの。中が』といちいち脱いで中を見せないと気がすまなくなった。『金色の恥ずかしさ』を『中がぬいぐるみ状』で埋めようとしている。ガクランとかズボンとかそういうことでなく、体操着の裏に龍の刺繍をしてしまったような気持ちだ。早く汚しがかがってあんまり光らなくなってほしい(結局気が小さい)。
それとも、川口(義之)さんの提案のように、全身を金色の靴に合う服にしちゃうか。