『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:73] 2003年09月26日(金) 00:03
そもそも、昨日の『ゆわかしと口ぶえvol.6』の特色は私の中では「単なる思いつきを最後まで形にしてみる」というものであった。「大根はエライ」然り、「ドーナッツフィルムズで作品制作」然り。どっちも最初はほんの思いつきであったり、冗談であったりしたのだけど、いろんな人やモノや思いやタイミングとの出会いや融合を経て、ある形にすることができたし、それは今も持続している。
でもまあ、このことはそんなに大げさに言うことでもなく、人は人生の中で多かれ少なかれ、なにかしらを思いつき、それを実現しながら日常を暮らしているのだから、「思いついたことをほんとにやっちゃいたい」という欲求は動物として非常に本能的なものといえる。しかし、その思いつきが日常生活においてまったくなんの役にも立たず、儲けにもならず、それによって一体誰が喜んでくれるのかすらよくわからないようなものだった場合、「それでもやっちゃおう」という「熱」がない限りそれを実現するのは意外と難しかったりする。やってる自分が萎えちゃったりしたら元も子もない。
そういう意味では、私はもうずっと長いことその熱にうかされ続けている、ということになると思うんだけど、今回の「vol.6」をやってみて、今更ながらに思った。そう、きっとこれからも私たちはしょーもないことをいろいろと思いつくのである。
そういう熱にうかされる人が多ければ多いほど、世の中にはくだらないものとか、また必然的に自分にとって不必要なものも増えるんだけど、なんにもない世の中よりずっといいと思うんだからしかたがない。