『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の
中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ
[link:6] 2003年06月23日(月) 02:02
[link:7] 2003年06月24日(火) 01:06
[link:8] 2003年06月26日(木) 00:26
[link:9] 2003年06月26日(木) 00:30
[link:10] 2003年07月01日(火) 22:49
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話してみると、その場にいた4人が4人とも「食事を作り、後片付けをするまで」の一連の流れにそれぞれ一家言あり、それが微妙にちがうことがわかって面白かった。
中でも『作りながらどんどん片付けていくのはキライだ。』と主張したある人が、その理由として『料理を作るという行為をしている時は、目的の矢印が<おいしい料理を食べるぞ>というほうへだけ向かっていたい。一方、後片付けをしている時はその目的の矢印が<終わったからさあかたづけよう。どんどん洗っちゃうぞ。>という方向だけにむかっているべきだ。だから「作りながら片付ける」という行為は、ちがう目的の矢印が同時に存在することになって、いやだ。作りながら片付けると、まず純粋に料理を食べる、という目的にむかうのではなくて、はじめから「後片付けまで終わった状態」に向かって進んでいるようで納得できない。』と主張していたのが面白かった。そりゃあもっともだ。
私などは『片付けるのが嫌いだからできるだけ作りながら片付けちゃおう』と思って洗ったりしているのだ、と自分で思っていたけど、よくよく考えてみると、本当に理由はそれだけではなくて、ただ単に料理もできた!流しもきれいに片付いてる!やった、すっきり!みたいなゲーム感覚的要素が多分にあるのではないか、という気がしてきた。きっと自分の手際のよさ炸裂!よしっ。みたいないい気分になるのだ。
どうなんだろう?私。